「三国志」「死者の書」を手掛けた人形美術家&アニメ作家

独自の作風と人形造形の美しさで世界を魅了

1925年1月11日、東京都に生を受ける。小学校時代に人形の魅力にみせられ、人形作りをはじめる。 旧制横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)建築学科を卒業。

旧陸軍技術将校を経て、太平洋戦後、東宝に入社して美術助手として映画の基礎を学ぶが、東宝争議(1946〜1948年:警察とアメリカ駐留軍の介入も招いた大型労働争議)に巻き込まれる。

この争議中に美術監督の松山崇の誘いを受け、アニメに早くから理解を示していた劇作家・飯沢匡(いいざわ ただす)が編集を務める「アサヒグラフ」「玉石集」の人形による社会風写真の制作に携わる。

1950年にに東宝を解雇されたのを機に、フリーの人形美術家に転身、飯澤匡の下で人形を使った絵本等の出版物の仕事に取り組むようになる。この頃、多くの人形劇・アニメ関係者に多大な影響を与えていたチェコの人形アニメの巨匠、イジー・トルンカの長編映画『皇帝の鴬』を見て、人形アニメこそ自分の一生を賭けるにふさわしい仕事だと決心する。

日本の人形アニメの第一人者だった持永只仁からアニメート法を教わり、その技術でCMのプランから人形作り、演出までをこなすようになった。1953年、飯沢匡、持永只仁、土方重巳、カメラマンの隅田雄二郎らと「人形芸術プロダクション」(NGプロ)を立ち上げた。

同年、ビールメーカーのマスコットキャラクターを主人公としたPR映画「ほろにが君の魔術師」を製作。人形を少しずつ動かすコマ撮りの手法が特徴的な本作品は、日本初の人形アニメーションとされている。

1954年から1957年にかけて、人形芸術プロダクションの製作の下に、『あかずきんちゃん』『じゃっくとまめのき』『三びきのこぶた』『へんぜるとぐれーてる』などの23冊の絵本を手掛ける。これらの絵本には川本らが実写映画で培った映画美術のエッセンスが凝縮されており、後の人形アニメーションの背景美術・ミニチュア装置技術の原形をうかがうことができる。

同時期に、人形映画製作所と電通映画社の下で、『ちびくろさんぼ』シリーズ(2作品)と『ふしぎな太鼓』、『こぶとり』の制作に携わる。1958年、人形を使ったCMや広告、絵本などの制作会社(シバプロダクション)を設立。常務取締役となる。1960年代に入ると「アサヒビール」のCMのほか、NHK『おかあさんといっしょ』や『魔法のじゅうたん』の人形アニメーションの制作に関わり、人形アニメーションへの注目を高めた。1962年、シバプロダクションを退社。

1963年、単身でチェコに渡りトルンカスタジオで学ぶ。その後ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ソ連、中央アジアと各国を渡り歩きユーリ・ノルシュテイン、ロマン・カチャーノフとも親交を深める。

帰国後、フリーのアニメ作家としてデビュー。処女作「花折り」をはじめ「鬼」「道成寺」「火宅」など、独自の様式美と伝統的な人形表現を盛り込んだ人形アニメーション映画を次々と発表、その独自の作風と人形造形の美しさで世界的アニメ作家となる。メルボルン、バルナ、ロンドン、上海など世界各都市の映画祭での受賞歴は枚挙にいとまがない。1971年から岡本忠成と合同で作品上映会「パペットアニメーショウ」を6回に渡って開催している。

1970年代、吉川英治の小説「三国志」の虜となり、「いつしか自分の手で三国志の人形劇をやりたい」と、曹操をはじめとする8体の人形(頭部のみ)を製作するも映像化のあてがなかった。しかし、工房の本棚に飾ったままこれらの人形を、偶然にも人形制作者を探していたNHKのディレクターの目に留まる。こうして誕生したのが、1982年に放送され子供だけでなく、大人にも高い評価を得たNHK人形劇『三国志』である。

2007年3月25日、長野県飯田市に「川本喜八郎人形美術館」がオープン。製作に携わった作品の人形が随時入れ替えられて展示されている。2010年8月23日、肺炎のため死去した。85歳。